豆を愛する管理人のつれづれなる随想

by OTT

第4回 「さや豆になった日」

夏真っ盛りという感じなので「夏の思い出」を語ろうと思います。といっても、つい二年前のことです。

私は友人たちと花火を見るために多摩川の河原に出かけました。場所取りというやつです。大きな黄緑色のビニールシートを敷いて、さあのんびり昼寝でもして夜を待つか、と思った瞬間、西の空に怪しく黒い雲が登場。あれよという間にあたりは暗くなり、ものすごい土砂降りになってしまったのです。
生憎傘など持ち合わせていない私たちはとっさに大きな黄緑色のビニールシートにくるまることを思いつきました。みんなでシートの端っこをつまんで、肩を寄せ合うようにして並び、くるりと巻くようにしてシートに入ると、うまい具合に雨を避けることができたのです。
シートの隙間から外を眺めると、打ちつける大粒の雨と、轟音とともに空を切り裂く稲光のなかを、雨宿りの場所を求めて走り回る人々の様子が見えました。

さや豆になって雨を防ぐのは結構大変です。頭上のシートからはうまく水を外に排水し、足下のシートは外からの浸水を防ぐようにちゃんとつまみ上げないといけません。各人、各豆の「チームワーク」が必要なのです。でもそうやって肩を寄せ合って「あ、水が入ってきた」とか言っていると、なんだか子供のときに戻ったような気分になって、こみ上げる笑いをこらえきれなくなってくるのです。
子供のころにやった「電車ごっこ」とか「二人三脚」、「馬跳び」といった遊びの感覚にちょっと似ています。窮屈だけど、なんだか楽しい。

さて、夕立は数時間降り続き、花火の打ち上げ開始時刻には晴れ上がりました。こうしてわが「豆ブラザーズ(アンド・シスターズ)」はめでたく解散し、大きな黄緑色のシートに座って頭上に花咲く素晴らしい花火に歓声を上げたのです。
花火を見ているとなんだか感傷的な気分になりますが、このときはなおさらでした。
花火を見るとなぜ悲しくなるのかはよく分かりません。「同じ美しいもの」を見て歓声を上げる。でもそれが終わればみんな帰っていく。「他人」というものの存在を強く意識するからでしょうか。
同じさやのなかで感じた不思議な一体感と、同じ花火を見るときの一体感、高揚感は、やはりずいぶん違います。
さや豆はいつか地に落ちて、ばらばらになって各々の人生ならぬ豆生を生きるわけです。きっと花火はそんな孤独な人生へのエールのように思えて、それで感傷的な気分になったのかもしれません。


第3回 「豆と鳩」
「はとぽっぽ」の歌を持ちだすまでもなく、豆と鳩には深い関係があります。鳩は昔から畑で育つ豆にとって大変な天敵でもありましたし、子供たちは鳩を豆鉄砲で狙い打つという、実にスリリングな関係もあったわけです。

さて私は最近、「餌をやる人」という存在が気になっています。公園などへ行くと暇そうなおじさん、おばさんが、鳩や猫に大量の餌をやっているのをよく見かけますが、この人たちは一体どういう気持ちなのだろうか、と気になりだしたのです。
ある公園でカラスにパン屑を与えるおじさんを観察しました。印象的だったのは、おじさんが実に無表情で、ほとんど何の感情も外に出さないことでした。ただ淡々と餌をやる。そのうちどこからか猫も現れ、カラスと猫の「餌やりおじさん」をめぐる争奪戦になってきたのですが、おじさんはどちらを贔屓することもなく、ただ無表情にパン屑を投げ続けるのみだったのです。
そう思って眺めてみると、鳩や猫に餌をあたえるおじさん、おばさんは一様にみな無表情です。鳩を追いかけまわす子供が楽しくて笑っていたり、野良猫をかまっている若いカップルが何やらにやけた顔をして猫を籠絡しようとしているのとは大きな違いがあり、そこにほとんど何の意図も感じられないのです。ただ大量の餌を与えるのみ。

そういえば『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』にも「鳥おばさん」が登場します。彼女はひたすら機械的に鳩の餌を売り続けるのですが、やはりとんでもなく無表情です。子供たちは、夜になると鳩が彼女のスカートの下で寝るんじゃないか、と想像したりするのですが、とにかく謎めいた存在なのです。

考えてみれば、鳩もカラスも野良猫も、都会に住む人間にとってはかなり迷惑な存在です。時にはふと戯れてみようかなどと思うにしても、ゴミ置場にネットをかぶせたり、無闇に彼らに餌を与えないというのが都会人のいわば「常識」であり、最近ではカラスに敵意を燃やし抹殺を図ろうとする知事なんてのも登場しました。そんな風に考えると、公園にやってきてほとんど無表情なまま大量の餌をばらまいていくおじさんやおばさんというのは実に不思議な存在といえるのではないでしょうか。

彼らを見ていると、自然と人間の対立というのはそんなに単純じゃないぞ、という気がしてきます。
人間が育てた豆を鳩が狙い、子どもは豆で鳩を狙い、老人は鳩に豆を与える。この一見どうでもいいような共存関係は、あらゆるダーウィニズム的な説明を超えて、これからも続いていくのかもしれません。


第2回 「停電の夜にそら豆」
先日私の住むマンションで停電がありました。
電気工事の関係で数日前から予告されていたらしいのですが、私はすっかりその張り紙を見落とし、突然おとずれた暗闇に慌てました。
でも私は停電が好きです。あのなんともいえない静けさ、そして何もできない、何もしなくてもいいんだという安心感は、都会に暮らしているとなかなか味わえない感覚です。
そばにあったギターを手探りで探してぽろろんと音を出してみたり、一通りの停電感覚を味わったあと、ろうそくを探して火をつけました。
せっかくの停電、酒でも飲もうかということで、そら豆を茹でようと水道の蛇口をひねると、なんと水道も止まっておりました。やかんに入っていた水などを集め、ようやくゆでることができたそら豆は冷凍食品特有の味気なさはあったものの、なんだかとても美味しく感じます。

停電といえば思い出すのは、二年ほど前に旅行したリオ・デ・ジャネイロでのことです。
その夜の停電は、停電大国ブラジルでも大ニュースになるほどの大きなものでした。なんとブラジル全土の約三分の一が停電になったというのです。
治安の悪さでも有名なこの国のこと、やはり話題の中心は「停電時にいかに自分や家族の身の安全や財産をまもるか」でした。
リオ・デ・ジャネイロの町は、丘の上に貧民街(ファベイラ)があり、停電がはじまると同時に、ここから物取りが大挙してくだり、リオの街は大混乱だったそうです。
私はその夜体調を崩し景色の見えない安ホテルの一室でぼんやりと外の音を聞いていました。時折人の叫び声などが聞こえ、これはただごとではないな、と思ったのを覚えています。

こんな話をした後でなんですが、私は「停電の制度化」を考えてもいいのではないかと思います。
世の中では「省エネ」なんてことがよく言われますが、一方でひたすら便利さを追求している限り、それには限界があるのです。不必要な電気は消す、電化製品の燃費をよくする、というのは確かに重要ですが、こうした「省エネ」は基本的に、エネルギーの大量消費を進めてきた合理性を求める論理と同じです。
無駄なものはなくし、有意義なものを増やそう、と。
もちろん、「無駄なもの」「有意義なもの」はあらかじめ決められているのです。
停電によって私達は物質文明のありがたみを痛感しますが、一方でそれがなくてもなんとかなるという、えがたい経験をします。
停電を制度化することは、電気がなくても見つけられる楽しみを探すこと、不意の天災にも強い備えある都市が作られること、電気の消費を減らすこと、美しい星空を束の間楽しめること、近所づき合いを促進すること、などさまざまな効果が期待できます。
私は電気に感謝しています。停電の夜のそら豆だって、それまで黙って働いてきた冷凍庫のおかげで食べることができたわけです。だからこれは電気の価値を貶めるものではなく、電気への尊敬と感謝をこめて投げかける提案なのです。


第1回 「モスのピリマメバーガーを食す」
新製品の予告が店頭に出たときから、「ピリマメバーガー」のコンセプトは正しく理解していたと思います。
つまり、これは私がかねてから期待していたような「牛肉の代わりに豆を使ったバーガー」などではなく、このハンバーガーチェーンの主力商品であるところの「モスバーガー」とほぼ同じものであるということ。
だから、私は決して過度の期待を抱いていたわけではないのです。
そんなわけで、このたびようやく食べることができた「ピリマメバーガー」について、報告します。
 
例によって、モスバーガーはファストフードにあるまじき長時間、私を待たせました。期待はつのる一方でした。
ようやく到着した「ピリマメバーガー」のソースをちょっぴり舐め、私は感動しました。
「豆の味がする!」
当たり前ですが、これは重要です。
次に、私は豆の姿を探しました。やや行儀が悪いと思いつつも、手でバンズを持ち上げ、中の様子を探ったのです。
「豆がない!」
食べながら、豆を探し続けましたが、愛らしいキドニービーンズの姿はどこにもないのです。
豆は味ばかりで姿なし。
「豆をペーストにしたな!」
怒るようなことではありません。後でよく見ると、机の上にあった「ピリマメバーガー」のプロフィールにはちゃんと「キドニービーンズをペーストにして」と書いてあるじゃありませんか。 
なんと、それは残念。

私が期待していた「ピリマメバーガー」はちょっと違うのです。豆がゴロゴロとまではいかないまでも、ちゃんと歯ごたえのある豆の姿を残してほしかった。
それでは食べにくいのでペーストにしたのではないか、という人がいるかもしれませんが、そもそも「モスバーガー」は食べにくいものなのです。最後にパッケージの袋に残ったソースをフライドポテトで掬って食べる、というのはこの店の暗黙の了解です。
ですから、私は最初から「ピリマメバーガー」を食べるときの感じを、こう予想していました。
まず、ハンバーガーにかぶりつくと、豆があちこちから飛び出ます。当然豆ばかりが袋の中に残るため、最後には普通にチリ・ビーンズを食べているのと変わらない状態になるでしょう。
スナック菓子「キャラメルコーン」を食べると最後にピーナッツばかりが残りますが、ちょうどあんな感じです。

これは、つぶ餡派と漉し餡派、あるいは御前汁粉と田舎汁粉の対立にも似た問題です。私は当然豆の姿を残すほうを応援しています。
もちろん、チリビーンズの既成概念をうち破って豆をペーストしたのには、モスバーガーなりの理由があったのでしょう。そのほうが少ない豆でより豆の風味がでること、均一な品質を保てること、などなど。
しかしこれら合理性を追求する姿勢は、モスバーガーにとって吉とでるか凶とでるか?
合理性を無視しても味を追求するのがモスバーガーの基本姿勢ではないのか?
私は敢えて「ピリマメバーガー」に漉し餡とつぶ餡の両ヴァージョン導入を求める!
などと考えながら、ちょっとだけ満たされない気持ちになりました。
そこで、追加注文したのが、季節限定メニューの「玄米フレークシェイク ずんだあずき」。こちらの餡はつぶ餡です。
かくしてモスバーガーの誇る「豆コース」は完成し、種類も歯ごたえも違う豆を食べ尽くした私は大いに満足して店を後にしたのでした。

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